教えのやさしい解説

大白法 482号
 
四弘誓願(しぐせいがん)
 「四弘誓願」とは、一切の菩薩が初発心(しょほっしん)の時に必ず発(おこ)す四種(ししゅ)の誓願で、「衆生無辺(むへん)誓願度(せいがんど)」「煩悩(ぼんのう)無数(むすう)誓願断(だん)」「法門無尽(むじん)誓願知(ち)」「仏道無上(むじょう)誓願成(じょう)」の四種をいい、菩薩の総願(そうがん)ともいいます。
 四弘誓願の名目(めいもく)には、多少の異同(いどう)がありますが、現行の形態は天台大師にあり、それぞれ苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めつたい)・道諦(どうたい)に配当(はいとう)されるといわれています。
 それぞれの内容を簡略(かんりゃく)に説明すると、次のようになります。
 衆生無辺誓願度……生死(しょうじ)の苦海(くかい)に沈(しず)んでいる一切衆生を救済しようと誓うこと。
 煩悩無数誓願断……一切の煩悩を断じ尽(つ)くそうと誓うこと。
 法門無尽誓願知……仏の教えをすべて学(まな)び知ろうと誓うこと。
 仏道無上誓願成……仏道を行じて無上の悟りを証得しようと誓うこと。
 すなわち、一切の菩薩は、上求(じょうぐ)菩提(ぼだい)・下化(げけ)衆生の精神に立って、この四弘誓願を全(まっと)うしなければならないのです。
 しかし、爾前(にぜん)権経(ごんきょう)においては、二乗の成仏が説かれず、九界(くかい)即仏界の円融(えんゆう)の義が成り立たちません。故に、いかに四弘誓願を立て、仏道に精進(しょうじん)しようと、能化(のうけ)の仏も所化(しょけ)の衆生も、ともに夢中(むちゅう)の妄想(もうそう)として消(き)え去(さ)り、誓願を成就(じょうじゅ)することができないのです。
 これに対し、法華経迹門(しゃくもん)では、諸法実相(じっそう)・四仏(しぶっ)知見(ちけん)によって二乗の成仏が明(あ)かされ、更に本門では、釈尊の本地(ほんち)の開顕(かいけん)によって、十界の久遠(くおん)常住・事の一念三千が明かされ、釈尊の身に約した衆生無辺誓願度が成就したのです。『方便品』に、
「我本(もと)誓願を立てて、一切の衆をして、我が如(ごと)く等(ひと)しく異(こと)なること無からしめんと欲(ほ)っしき。我が昔の所願の如き、今者(いま)は已(すで)に満足しぬ」(開結一七六)
と説かれることは、まさに熟脱(じゅくだつ)の教主・釈尊の四弘誓願の成就と見るべきでしょう。
 さて、末法の日蓮大聖人の四弘誓願は、更に一重(いちじゅう)立ち入った結要伝授(けっちょうでんじゅ)の要法にこそ存するのです。すなわち『御義口伝(おんぎくでん)』に、
「当家(とうけ)の立義(りゅうぎ)としては南無妙法蓮華経を指(さ)して今者已(こんじゃい)満足と説かれたりと意(こころ)得べきなり」 (新編一七三二)
 また、『御講(おんこう)聞書(ききがき)』に、
「所詮(しょせん)四弘誓願の中には衆生無辺誓願度肝要(かんよう)なり。今(いま)日蓮等の類(たぐい)は南無妙法蓮華経を以て衆生を度(ど)する、是(これ)より外(ほか)には所詮無きなり(中略)四弘(しぐ)の弘とは何物ぞ。所謂(いわゆる)上行所伝(しょでん)の南無妙法蓮華経是(これ)なり」(新編一八六二)
等とあるように、大聖人は、文底下種の南無妙法蓮華経を指して「今者已満足」とされるのであり、この上行(じょうぎょう)所伝の妙法、すなわち三大秘法の御本尊によって末法の一切衆生を救済するのである、と説かれています。
 私たち法華講衆にあっては、地涌(じゆ)の菩薩の眷属(けんぞく)たる自覚をもち、自ら妙法を唱え、更に折伏に邁進(まいしん)するところにこそ、四弘誓願の実践が存することを銘記(めいき)すべきです。